ジャベールは人生をかけて主人公のジャン・バルジャンを執拗に追い回していた警部です。彼は、ジャンの過去をつぶさに知っています。回心したジャンの姿を偽りであると見なし、彼のまなざしは、現在のジャンの姿ではなく、ジャンの罪深い過去をいつも見つめています。
わたしは、ジャベールの姿の中に、ルカによる福音書7章に登場するファリサイ派のシモンを見ました。罪深い女と呼ばれている人が、主イエスに会うために、シモンの家に来ました。彼女の目から涙が流れ落ち、主イエスの足を濡らします。彼女は、座り込み、自分の長い髪で主イエスの足を拭き、足に接吻して、足に香油を塗りました。シモンは、彼女のこの行為を見ても、彼女のことを罪深い女としか認識できません。シモンは、彼女が如何に主イエスを愛そうとも、彼女の中に赦しからわき上がる愛があることを、見ることができません。昔犯した罪の故に、シモンの目には、彼女はいつも罪の女のままです。
原作の『ああ無情』というタイトルがまさに当てはまるのは、コゼットの母ファンテーヌです。彼女は、若い頃、恋に落ち、子どもの父親の保護が得られない中で出産し、母として我が子を一心に愛します。しかし、社会は彼女に冷酷です。愛情があるが故に悪人に騙され、また、美人である故に妬みを受け、彼女を笑い続けようとする人々の悪意に晒され続けます。ファンテーヌを見つめる世間の目は、まさに、シモンとジャベールのまなざしです。
ファンテーヌの母としての優しさ、女性としての気品に目が開かれていたのは、ジャンだけでした。映画ではジャンに見つめられていたファンテーヌは幸せそうでした。ルカによる福音書7章においては、罪の女と町の人から呼ばれている女性の中に、愛の美しさを見つめておられたのは、主イエス・キリストお一人です。
ところで、ジャベールは、訳あって、ジャンから情けを受けました。その後、彼は、自分を助けてくれたジャンをもう捕らえることができなくなり、彼の生き方は変更を余儀なくされます。そして、人を決して赦さなかった自分が今赦されて生きていることに耐えられなくなり、死を選びました。彼は、ジャンを追い詰め続け、最後は自分をも追い詰めてしまいました。
赦され、人を赦して生きてきたジャンの最後は、燭台の光で照らされていました。それとの対比において、赦しの光を拒絶し続けてきたジャベールの最後は、闇の体験です。映画では、下を見るのが怖いほど高い建物の屋根から真っ暗な、底なしのような中に、飛び降りて行きました。小説では、セーヌ川から身投げしたことになっています。その場面は、このように描かれています。
首をかしげて、下を覗き込んだ。真っ暗だ。……引き込まれそうな暗闇などが、夜のなかで彼を威喝してくる。ジャベールはもうしばらくじっとしたまま、真っ暗な橋の下を見下ろしていた。 ……にぶいザブンという水音が響く。黒い人影が身を震わせながら水のなかに消えた理由を知るのは闇だけだった。
(『レ・ミゼラブル』、角川文庫、下、p.347)
「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とお語りくださる主イエス・キリストと出会い、主を信じてください。主イエスが与えてくださる安心の中で、闇に覆われることなく、赦しの光を体いっぱいに受けて、人生を歩んでください。