「ジャン・バルジャンの回心」(7月21日「キリストへの時間」メッセージ)岩崎 謙牧師

ジャンは、長年の苛烈な投獄生活で、身も心も、ぼろぼろになっていました。しかし、出獄して、ミリエル司教と出会うことにより、人生が変わりました。銀食器を盗んだジャンが警官に捕まったとき、ミリエル司教は、警官に対して、わたしが銀食器をあげたと語り、さらにジャンに対して、この銀の燭台も持っていくがよいと差し出しました。

ジャンは、一生涯、ミリエル司教からもらった燭台を手放すことはありませんでした。小説によれば、ジャンが最後の息を引き取る場面も、この燭台の光がジャンを照らしていました。燭台の光は、神の赦しの恵みを象徴的に表しています。ジャンは、自分の生活のすべてが赦しの上に成り立っていることを忘れることなく、貧しい人、弱い立場の人に寄り添い、彼らに愛を注ぐことに自分の人生を献げました。

実は、ジャンの回心に至る次の場面が、映画では省略されています。ジャンは、ミリエル司教の赦しを受けてすぐ、プティという楽器演奏で日銭を稼ぐ少年と出会います。少年の銀貨が、ジャンの足元に転がっていきます。ジャンは、その銀貨を踏みしめ、プティを威嚇し、追い払います。その時、我に返ります。小説は、この出来事を記す際、ジャンの内面的体験を丁寧に描いています。以下は、小説からの引用です。

「俺は、なんとろくでなしなんだ!」

 胸が苦しくなり、涙がどっと湧き上がる。19年ぶりの涙だった。・・・・・・泣いているうちに、心のなかがどんどん明るくなり、そのとてつもない輝きが急激に明るさを増してすさまじいものへと変わっていった。・・・・・・いましがた少年から40スー銀貨を奪うという、司教に諭されたあとなのに、いままで以上の愚劣で悪質なことをしてしまったこと。そういった諸々がはっきりと頭のなかに浮かんできたが、それと一緒に光も見えている。・・・・・・自分が何を考えていたかに気付いて、ぞっとする。でも、過去と魂に、やわらかな光が差している。

 (『レ・ミゼラブル』、角川文庫、上、p.61)

 ジャンは、罪を赦されても、無慈悲にしか振る舞えない自分が、どれほど酷い人間であるかに気付いています。しかし、その悲しみは、光の体験として描かれています。光は、自分の罪深さに絶望するなという神からの励ましと、罪深い者であるにもかかわらず神に赦されているというジャンの喜びとを、表しています。

ミリエル司教の赦しに起因するジャンの光の体験は、聖書が語る主イエス・キリストの赦しの奇跡を指し示すものです。主イエスは、町の人びとから「罪深い女」と呼ばれていた彼女に語られました。「あなたの罪は赦された。・・・・・・あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ7:48,50)。すべてのキリスト者は、彼女のような、また、ジャンのような赦しの体験を、主イエスと出会う中で味わっています。

どうか、主イエスを信じてください。主イエスが与えてくださる安心の中で、赦しの光を体いっぱいに受けて、人生を歩んでください。

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