説教「子どもが祝福される場」岩崎謙 神港教会牧師(2019年10月6日礼拝)

マルコによる福音書10章は、離婚を含む夫婦の問題(1-12節)、子どもの問題(13-16節)、財産の問題(17-31節)と続きます。共通テーマは、エルサレムに上る途上での弟子訓練です。弟子は、日常生活の中で主イエスに従う者です。弟子は、夫婦のあり方、子どもとの接し方、お金の使い方等において、この世の人とは違う、主イエスが王である神の国に相応しい生活スタイルを形成する者です。

今日の聖書箇所は、子どもが主題です。当時の子どもの理解は、将来の労働力として期待されたとしても、それは13歳の大人になって実現されるものです。そこに至るまでの子どもは、律法の学びができていない未熟な者であり、当時の男性中心社会にあっては無価値な存在と見なされていました。子どもが子孫繁栄をもたらす神の祝福であったとしても、しかし、可愛い、無邪気、無垢などの言葉で子どもを誉める、今日のような子どもを尊ぶ文化は当時にはありません。

主イエスは、9章に続いて10章でも子どもを通して、弟子を教育されます。4000人を養うパンの奇跡の際、分からないのか、悟らないのか、心が頑なになっている、目があっても見えず、耳があっても聞こえない、と主イエスは弟子たちを叱責されました(8:17,18)。主イエスがエルサレムでの受難予告をされた後、エルサレムに上る途中、弟子たちは弟子の中で誰が一番偉いかを議論していました(9:34)。主イエスに従うことで、自分が偉くなりたくてしかたがない者たちです。偉い人の対極として、主イエスは小さい子どもを彼らの中に立たせます。そして、子どもを受け入れることが、主イエスを受け入れることであり、主イエスを派遣された神を受け入れることである、と主イエスは語られます(9:36,37)。小さい子どもを受け入れることと十字架への道を進む主イエスを受け入れることとを同一線上に置かれました。

この学びを受けた弟子が、今日の箇所において、子どもが主イエスに近づくのを妨げています。主イエスから学んだ子どもの大切さを全く心に留めていません。主イエスは、そのような弟子に憤られました(14節)。実は、主イエスが憤ったと語るこの箇所は、弟子の鈍さを強調するマルコにしかありません。主イエスは、我を忘れるほど激高されたのでしょうか。感情的になられたのでしょうか。よく分かりませんが、弟子は主イエスの憤りに触れ、恐かったのではないかと思います。主イエスは、自分が虐げられることで憤るお方ではなく、子どもに相応しい配慮がなされないときに、お怒りになるお方です。弟子は、主イエスにとって子どもが如何に尊い者であるかを、主イエスの憤りからも学んだことでしょう。

子どもが近づくのを妨げる弟子は、子どもを連れて来た人々を叱りました(13節)。おそらく、親を叱ったのでしょう。親を叱る弟子に憤り、主イエスは「子どもを来させなさい」と語られます(14節)。歩ける子どもなら、子どもが主イエスに近づいて来ます。赤ちゃんの場合は、子どもを抱っこしている親を来させない、となります。「妨げてはならない」という言葉は、後の時代、幼児洗礼式のときに用いられる定型句となりました。幼児洗礼は、マルコによる福音書執筆時の問題ではありませんが、この箇所を用い幼児洗礼によって、子どもが教会の大切な一員であることを公にすることは理に叶っています。

当時は家の教会です。大人たちが主イエスの教えを聞こうと集まっています。その場には、当時の常識からすれば、子どもは相応しくありません。弟子の目からすれば、主イエスが教えておられる家に子どもの祝福を求めて子どもを連れてくるのは、当時の常識を逸脱した行為です。弟子たちは特別に子どもに厳しかったわけではありません。その弟子たちが主イエスの憤りの的となったのは、主イエスの独自な視点によるものです。主イエスの目には、弟子とはどのような存在として映っていたのでしょうか。本日の礼拝への招きの言葉(マタイ11:25)で、幼子のような者(赤ちゃんという意味もあり)と呼ばれているのは、弟子たちのことです。彼は、律法を学んだ知恵ある、賢い大人ではありません。主イエスの前では、彼ら自身が幼子のような者です。マルコによる福音書によれば、確かに、彼らは理解が鈍く、すぐ偉そぶり、わがままで、主イエスにいつも叱られる手に負えない子どもみたいな者です。それにもかかわらず、彼らは、父なる神から

選ばれ、主イエスにより心から愛され、神の国に受け入れられた者です。その弟子たちが、主イエスに近づく子どもを追い出しています。子どもを追い払う、悪ガキの子どものようにも見えます。主イエスの目からすれば、彼らが子どもを追い払うのは、彼ら自身を神の国から追い出すことと同じです。また、マルコが福音書を書いた当時の教会には、子どもと親が主イエスに近づくのを妨げるものがあったのでないかと思われます。子どもにとって、子どもを連れてくる親にとって、教会が息苦しい所になっていたのかもしれません。それらへの反省と悔い改めが、今日の箇所の背後にあると思われます。この種の問題は、今日の教会にも当てはまるものです。また、14節は、主イエスの所に行かせることを、神の国の祝福を受けることと同一視しています。主イエスのそばに行くことが、まさに神の国の祝福を受けることです。子どもを追い払うとすれば、神の国に子どもがいなくなってしまいます。そのような神の国は、主イエスからすれば、あり得ないことです。

「神の国はこのような者たちのもの」(14節)と「子どものように神の国を受け入れる人」(15節)という表現は、単に、子どものことだけを語っているのではありません。誰が神の国に相応しいのかという問へと話しが広がっています。そして、15節は、子どものように受け入れなければ、「決して、絶対に」、神の国に入れない、という非常に強い断言です。また、主イエスが熱い思いから発せられる「アーメン」で始まっています。しかし、残念なことには、子どものように神の国を受け入れることが一体何を意味しているのかは、自明ではありません。たとえば、「子どもは、親を信頼し、無邪気に、もらったものを受け取る。だから、弟子は、子どもの無垢の信頼を模範にして、神を信頼して、感謝して、神の国の祝福を受け取ろう」というようなメッセージが語られることがあります。しかし、マルコによる福音書には、子どもに関するこのような理想化はありません。ところで、「子どもが神の国を受け入れるように神の国を受け入れる」(日本語訳聖書)は一つの解釈であり、文法的には別の解釈の可能性があります。「子どもを受け入れるように神の国を受け入れる」です。今日の説教では、この解釈を採用します。すると、社会で無価値とされていた子どものような者を受け入れる視座をもたない者は、神の国を受け入れることも、「決してそこに入ることはでき」ません(15節)。実質的には、9章37節の言い換えです。そして、ここでの強調形は、たとえ12弟子であったとしても、子どもを追い出すなら、あなたがた自身が神の国から追い出されるという警告となります。教会が子どもをどのように受け入れているかは、子どもの受け入れだけの問題ではなく、教会そのものが神の国の祝福にあずかれるか否かにかかわる事柄です。

今日の説教題は、「子どもが祝福される場所」です。それは、神の国です。具体的には、主イエスが共にいてくださる信者の家庭であり、教会であり、主イエスの教えに従おうとする様々な共同体です。もし、そのような場所において子どもが祝福されていないとすれば、それらの場所は神の国の祝福を世の人に指し示すことはできません。神の国では、子どもこそ、主イエスの真心からの祝福を受けるに相応しい者です。信者の親は、子どもにどんな悪いことがあったとしても、主イエスから祝福を受けるのは我が子であると確信し、主イエスの祝福を求めて主イエスのもとに子どもを連れてきます。また、信者の親は、子どもの悪いところを見て、子どもを怒った後で、子どものようなダメな自分が恵みによって救われたことに改めて感謝し、子どもにも神の国に生かされている恵みを伝えようとします。主イエスの前では、子どもも親も同じです。そして主イエスは、昔に比べると子どもの評価が高い今日の社会においてもなお、一般社会とは違う、社会が驚くような仕方で、キリスト教会が子どもを尊ぶ場所となることを願っておられます。教会は、子どもの祝福を祈り求め、子どもと子どもを連れてくる親と一緒に神の国の祝福にあずかる場所です。キリスト教会は、子どもを抱き上げ、両手をおいて祝福された主イエスに従う教会です(16節)。山中協力牧師から李協力宣教師にバトンタッチされた今、子どもが祝福される教会となることは、神港教会の最重要課題です。皆で心合わせて祈り求めて参りましょう。