「二人だけの語らい」(教会だより第3号より)岩崎謙牧師

ゆるしがたい過ちを犯した女性がいます。
そこに、裁きを装い、人を陥れる者が現れます。
主イエスは、「罪なき者、まず石を投げうて」と
彼らに語られ、身をかがめ
地面に指で字を書いておられます。

主の言葉により
自らの心に潜む思いに気付いた者は
年長者から順にその場を離れ
訴えられた女性がひとり、たたずんでいます。
主は、身を起こして彼女と向き合い
「わたしもあなたを罪に定めない」、と語られます。
二人だけの静かな語らいです。

主イエス・キリストは
悪意をもって人を裁く世界に背を向け
救いの言葉を心の深みに届けてくださいます。

(「ヨハネによる福音書」8章1~11節より)

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「希望の階段」(教会だより第2号より)岩崎謙牧師

親元を離れ、不安な旅立ちをする人物がいます。
彼の名はヤコブです。彼は、夢を見ました(創世記28章12節)。
「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており…… 神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」。
この夢は、孤独なヤコブのまなざしを天へ向けさせました。

雲間から差し込む光は、「ヤコブの梯子(はしご)」と呼ばれています。

「雲間よりヤコブの梯子降りてきて ねむれる母を連れてゆくなり」
死去した母は天へと上って行ったという希望が、この短歌に 込められています。

主イエス・キリストは、語っておられます(ヨハネ14章6節)。
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、
だれも父のもとに行くことはできない」
主イエスこそ、天と地をつなぐ階段です。世の旅路が八方ふさがりであったとしても、あなたの上に希望の階段は天より伸びてきています。主イエスの道を踏みしめ、天の父なる神を見上げて歩みます。

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「アンネのバラのささやき」(教会だより第1号より)岩崎謙牧師

周りにいる人は、自分に良くしてくれる人ばかりではありません。私たちは気がついてみると、悪人・善人という区別の中に人を割り振っています。そして、国同士の戦争になると、国の違いだけで敵・味方に分けられ、恐ろしいことに、敵なら憎んでもよいという思いが人びとの心に広がります。

さて、イエス・キリストの父である神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。悪人でも、命を支える神の御手に守られています。自然の恵みに感謝するとき、敵をも愛しなさいというイエス・キリストの言葉が心に浮かびます。 (マタイによる福音書5章より)

神港教会のアンネのバラは、「どのような厳しさの中にも神の愛と恵みが溢れている」とささやいています。

アンネのバラと神港教会

※「アンネのバラ」は、『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクを偲び、ベルギーの園芸家の手によって生まれた新品種のバラです。神港教会の花壇でも、春に美しい花を咲かせます。

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「ジャベールのまなざし」(7月28日「キリストへの時間」メッセージ)岩崎 謙牧師

ジャベールは人生をかけて主人公のジャン・バルジャンを執拗に追い回していた警部です。彼は、ジャンの過去をつぶさに知っています。回心したジャンの姿を偽りであると見なし、彼のまなざしは、現在のジャンの姿ではなく、ジャンの罪深い過去をいつも見つめています。

わたしは、ジャベールの姿の中に、ルカによる福音書7章に登場するファリサイ派のシモンを見ました。罪深い女と呼ばれている人が、主イエスに会うために、シモンの家に来ました。彼女の目から涙が流れ落ち、主イエスの足を濡らします。彼女は、座り込み、自分の長い髪で主イエスの足を拭き、足に接吻して、足に香油を塗りました。シモンは、彼女のこの行為を見ても、彼女のことを罪深い女としか認識できません。シモンは、彼女が如何に主イエスを愛そうとも、彼女の中に赦しからわき上がる愛があることを、見ることができません。昔犯した罪の故に、シモンの目には、彼女はいつも罪の女のままです。

原作の『ああ無情』というタイトルがまさに当てはまるのは、コゼットの母ファンテーヌです。彼女は、若い頃、恋に落ち、子どもの父親の保護が得られない中で出産し、母として我が子を一心に愛します。しかし、社会は彼女に冷酷です。愛情があるが故に悪人に騙され、また、美人である故に妬みを受け、彼女を笑い続けようとする人々の悪意に晒され続けます。ファンテーヌを見つめる世間の目は、まさに、シモンとジャベールのまなざしです。

ファンテーヌの母としての優しさ、女性としての気品に目が開かれていたのは、ジャンだけでした。映画ではジャンに見つめられていたファンテーヌは幸せそうでした。ルカによる福音書7章においては、罪の女と町の人から呼ばれている女性の中に、愛の美しさを見つめておられたのは、主イエス・キリストお一人です。

ところで、ジャベールは、訳あって、ジャンから情けを受けました。その後、彼は、自分を助けてくれたジャンをもう捕らえることができなくなり、彼の生き方は変更を余儀なくされます。そして、人を決して赦さなかった自分が今赦されて生きていることに耐えられなくなり、死を選びました。彼は、ジャンを追い詰め続け、最後は自分をも追い詰めてしまいました。

赦され、人を赦して生きてきたジャンの最後は、燭台の光で照らされていました。それとの対比において、赦しの光を拒絶し続けてきたジャベールの最後は、闇の体験です。映画では、下を見るのが怖いほど高い建物の屋根から真っ暗な、底なしのような中に、飛び降りて行きました。小説では、セーヌ川から身投げしたことになっています。その場面は、このように描かれています。

首をかしげて、下を覗き込んだ。真っ暗だ。……引き込まれそうな暗闇などが、夜のなかで彼を威喝してくる。ジャベールはもうしばらくじっとしたまま、真っ暗な橋の下を見下ろしていた。 ……にぶいザブンという水音が響く。黒い人影が身を震わせながら水のなかに消えた理由を知るのは闇だけだった。

(『レ・ミゼラブル』、角川文庫、下、p.347)

「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とお語りくださる主イエス・キリストと出会い、主を信じてください。主イエスが与えてくださる安心の中で、闇に覆われることなく、赦しの光を体いっぱいに受けて、人生を歩んでください。

「ジャン・バルジャンの回心」(7月21日「キリストへの時間」メッセージ)岩崎 謙牧師

ジャンは、長年の苛烈な投獄生活で、身も心も、ぼろぼろになっていました。しかし、出獄して、ミリエル司教と出会うことにより、人生が変わりました。銀食器を盗んだジャンが警官に捕まったとき、ミリエル司教は、警官に対して、わたしが銀食器をあげたと語り、さらにジャンに対して、この銀の燭台も持っていくがよいと差し出しました。

ジャンは、一生涯、ミリエル司教からもらった燭台を手放すことはありませんでした。小説によれば、ジャンが最後の息を引き取る場面も、この燭台の光がジャンを照らしていました。燭台の光は、神の赦しの恵みを象徴的に表しています。ジャンは、自分の生活のすべてが赦しの上に成り立っていることを忘れることなく、貧しい人、弱い立場の人に寄り添い、彼らに愛を注ぐことに自分の人生を献げました。

実は、ジャンの回心に至る次の場面が、映画では省略されています。ジャンは、ミリエル司教の赦しを受けてすぐ、プティという楽器演奏で日銭を稼ぐ少年と出会います。少年の銀貨が、ジャンの足元に転がっていきます。ジャンは、その銀貨を踏みしめ、プティを威嚇し、追い払います。その時、我に返ります。小説は、この出来事を記す際、ジャンの内面的体験を丁寧に描いています。以下は、小説からの引用です。

「俺は、なんとろくでなしなんだ!」

 胸が苦しくなり、涙がどっと湧き上がる。19年ぶりの涙だった。・・・・・・泣いているうちに、心のなかがどんどん明るくなり、そのとてつもない輝きが急激に明るさを増してすさまじいものへと変わっていった。・・・・・・いましがた少年から40スー銀貨を奪うという、司教に諭されたあとなのに、いままで以上の愚劣で悪質なことをしてしまったこと。そういった諸々がはっきりと頭のなかに浮かんできたが、それと一緒に光も見えている。・・・・・・自分が何を考えていたかに気付いて、ぞっとする。でも、過去と魂に、やわらかな光が差している。

 (『レ・ミゼラブル』、角川文庫、上、p.61)

 ジャンは、罪を赦されても、無慈悲にしか振る舞えない自分が、どれほど酷い人間であるかに気付いています。しかし、その悲しみは、光の体験として描かれています。光は、自分の罪深さに絶望するなという神からの励ましと、罪深い者であるにもかかわらず神に赦されているというジャンの喜びとを、表しています。

ミリエル司教の赦しに起因するジャンの光の体験は、聖書が語る主イエス・キリストの赦しの奇跡を指し示すものです。主イエスは、町の人びとから「罪深い女」と呼ばれていた彼女に語られました。「あなたの罪は赦された。・・・・・・あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ7:48,50)。すべてのキリスト者は、彼女のような、また、ジャンのような赦しの体験を、主イエスと出会う中で味わっています。

どうか、主イエスを信じてください。主イエスが与えてくださる安心の中で、赦しの光を体いっぱいに受けて、人生を歩んでください。