説教 「空しさに打ち勝つ人生」岩崎謙神港教会牧師(2019年4月28日神港教会特別礼拝)

126 編 【都に上る歌】

5 涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。
6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

127編 【都に上る歌。ソロモンの詩。】

1主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。
2 朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ。それは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。

教会では何度か話していることですが、曲がった膝を伸ばすリハビリを自宅で毎朝約30分間は行っています。努力の甲斐あって痛みは取れたのですが、病院に行くたびに、まだ曲がっている、日々のリハビリが足りないと叱られます。真面目にしていると反論すると、やり方が悪いと怒られます。昨年の8月から続けていますので、家でのリハビリが、少し空しく感じられてきていました。それが、先週の金曜日、理学療法士の先生が3人ぐらい集まり相談しながら、超音波や電気を当て筋肉をほぐし、足をひっぱったり回したり物理的な力を加えながら、膝が伸びるように、一時間程治療してくださいました。帰りがけに、また頑張ってリハビリに励もうと思いました。空しいなぁと思うことがあっても、傍らに励ます人や助ける人がいてくれる大切さを、今回、体験しました。一人で空しさと格闘して、それに打ち勝つのは、凡人にはできないのではと思います。

今日、お読み致しました聖書は、「都に上る歌」と分類されている詩編です。旧約聖書の時代、イスラエルの民が、地方の各地から、エルサレム神殿の礼拝に行くときに、歌った巡礼の歌です。一人でなく皆で歌を歌い、旅をしていたことを伺い知ることができます。126編1節から4節は、この詩編が作詞されたときの歴史的状況を描いています。バビロンに捕囚として連れて行かれたイスラエル人が、エルサレムへの帰還を許された喜びが歌われています。この歴史的状況を踏まえると、5,6節の意味が更に立ち上がってきます。5節の種蒔くときの涙と刈り入れのときの喜びが、6節では出て行くときの涙と帰って来ることの喜びとして言い換えられています。バビロンに出て行くとき、涙しかなかったが、喜びをもってエルサレムに帰還できる、となります。さらに、次のような解釈もなされてきました。バビロン捕囚の生活に慣れ親しんだイスラエルの民は、エルサレムに帰還する苦労や神殿を再建する苦労を、厭うようになっていました。エルサレムへの帰還の道は、涙を伴うものであっても、必ず喜びが待っているから皆で手を取り合って出かけよう、と励まし合う歌です。

「空しさに打ち勝つ」とは、空しさを蹴散らして、空しさがなくなることではありません。空しさがあっても、それに負けないという意味です。喜びの収穫の時に至る前に、涙の種蒔きの時が必要です。泣いている目は、収穫への希望を見ることできないかもしれません。空しさの涙であるかもしれません。しかし、その涙は、神の御前で流す涙です。神は必ず、その涙を神の御前での喜びに変えてくださるという約束が歌われています。種が良いから必ず収穫に至るというのではありません。神が種蒔く苦しみを見、その涙を見ておられるので、神が収穫の恵みを与えてくださる、という信仰がここに表明されています。先日、ある信徒と「なんでこんなことになったのでしょう」と泣きながら祈りました。まだ、解決の道筋は見えていません。しかし、神の御前で泣いて祈った祈りを、神はいつの日にか喜びに変えてくださるという希望が心に宿っています。涙を伴う信仰生活であっても、祈り合い励まし合って進むなら、いろいろなことに空しさを感じても、それに負けることはありません。

127編は、家庭を築くという意味で、結婚式でよく読まれます。ところが、1節を見ますと、家はすぐ町と言い換えられます。エルサレムは城壁都市でした。個人の家だけでなく、人々の家々が集まる共同体としての町が、念頭に置かれています。見張るとは、敵が攻めて来ないかと、徹夜で行う重労働です。2節に「焦慮して」と難しい言葉が記されています。直訳するなら、苦労のパンです。痛みを伴うほどの苦しみによって手にいれたパンです。当時、実際にパンを手にするには、それほどの苦しみを伴っていたのでしょう。126編では、収穫の喜びに至る前には、涙の種蒔きの

労働が必要なことを歌っていました。聖書は、労働を軽視することは決してありません。それなのに、127編は、見張る労働、パンを得る苦しみを伴う労働を、なぜ「空しい」と語るのでしょうか。しっかり見張っていても、より強い敵が攻めてきたら、町を守ることはできません。苦労してパンを得ても、健康を損なうなら、得たパンを食べることはできません。見張りが意味を持つのも、苦労してパンを手にするのも、その背後に神の守りがあるからです。その神の守りを忘れて、自分が苦労したから、町は安全でパンを食べられると思うとしたら、それは空しいことです。神が建てようとしておられない家を、自分の労働で建てること。神が守っておられない町を、自分の力だけで守ること。どちらも空しい、と詩編は語ります。2節の強調点は、最後の「神は愛する者に眠りを与えられる」にあります。労働を続けることができるのは、寝ることができるからです。眠れなくなったら、日常生活は崩壊します。生きる上でかくも大切な眠りを神は愛する者に与えてくださいます。神に守られ愛されていることを知らずに、自らの労働を誇る者は空しい、これが詩編127編のメッセージです。

五千円札に描かれている新渡戸稲造はキリスト者で、次のような言葉を残しています。「To knowだけでは十分ではない。To doが大切である。しかしもっと大切なことは、to be である」。弟子の南原繁は、「何かをなす〈to do〉前に、何である〈to be〉ことをまず考えよというのが、先生の一番大事な教えだったと思います」と語っています。To do とは、何かをすることです。To be とは、自分が行うことではありません。或る本は、「あなたがあなたとして存在すること」と説明していました。詩編127編を新渡戸の言葉で言い換えると、町を見張り、苦しんでパンを得るto do よりも、自分が神に愛されている存在である to be に思いを向けよ、となります。

働き盛りのサラリーマンを診察してきた精神科医の本を読みました。エリート社員が業績をあげるという to do に没頭する中、夫や父であることの to be の部分が欠け落ちていきます。そのしわ寄せが配偶者や子どもに表れ、その対応に追われて心労が重なり、結果的には仕事もできなくなるという事例が紹介されていました。敏腕検事として名を上げ、引退後は弁護士となり、年齢を感じさせない精力的な働きを続けていた人の事例紹介もありました。彼は或る日仕事での移動中、目眩がして動けなくなり、救急車で病院に運ばれました。目眩はたいしたことなかったのですが、もう自分は働けない、後は死を待つばかりだと思い込み、それ以降は、廃人のような晩年を過ごすこととなりました。To doでの高い自己評価は、それができなくなる時、極端に低い自己評価に転じる恐さを覚えました。

新渡戸の言葉から影響を受けた樋野ひの興夫おきおという医者がいます。彼はキリスト者で、ガンの病理学者です。その彼が、ガンに病む人と語り合うガン哲学外来を開設しました。彼の言葉を紹介します。「娯楽の少ない土地ですから、夏休みでも海で泳ぐくらいしかありません。……仲間と遊んでいる時には気付きませんでしたが、一人で遊んでいると、20~30㍍離れたところで夕涼みしているお年寄りたちの誰かがを見ていることに気付きました。……そっと見守ってくれているのですね。これには、大変な安心感がありました。……ガン哲学外来を立ち上げ、多くの人の悩みや不安と向き合うようになったことも、……お年寄りたちのやさしい眼差しが原点になっている気がします。あたたかい他人がそっと心配してくれている安心感と安らぎ。『これが人生だ』と思いました。」幼少期の老人の前でのto be とキリストの前での to beが、患者の傍にいたい(to be)という彼の働き(to do)を支えています。

牧師の働きをしていても、to do に明け暮れるなら、空しさが残ります。to do だけの世界に住んでいては、空しさに勝てません。空しさに打ち勝つには、神の御前で罪人であるが、その自分がto be としてキリストにより愛され、罪赦されているという実感が必要です。キリストが来られたのは、「神は我々と共におられる」という to be の世界の確かさを、私たちに与えるためです。キリストを信じ、エルサレムの都、つまり教会の中に、自らの生活の拠点を据えてください。to be の世界は、決して孤独ではありません。皆で巡礼歌を歌い合って進む人生です。これから歌う詩編121編も都上りの歌です。日常生活の中で空しさを感じることは多々ありますが、礼拝で神から励ましを受け、祈りを共にし賛美に声を合わせ、空しさに負けない人生を、手を取り合って、全うできたらと願います。