説教「平和に過ごす決意と秘訣」岩崎謙 神港教会牧師(2019年8月25日準伝道礼拝)

マルコによる福音書9:38-50

38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。44 (†底本に節が欠落)45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。46 (†底本に節が欠落)47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

49 人は皆、火で塩味を付けられる。50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。

今年の6月に、大阪第一、在日大韓教会のソンナムヒョン牧師が、ご挨拶に来られました。ソウルのヨンセ教会から派遣された宣教師です。ヨンセ教会は、キム・ヨング牧師が開拓した教会で、現在の主任牧師はそのお孫さんで三代目の牧師です。実は、韓国で事業をしておられた桝富安左衛門兄が(1911年~1915年頃の当教会員)が、初代牧師のキム・ヨング先生を彼の神学生時代から物心ともに支えました。ソンナムヒョン宣教師は、桝富さんとヨング牧師との出会いがなければ、ヨンセ教会は存在せず、自分が日本に来ることもなかったので、昔桝富さんがいた神港教会を是非訪れたい、また桝富さん関係の資料があれば、見せてもらいたい、とのことでした。二人の出会いはヨンセ教会の教会史に記されているそうです。

日本と韓国の教会には、教会独自の結び付きがあります。日本の教会には、その中での特別な悔い改めがあります。日本と韓国が政治的にどのようになっていこうとも、わたしの思いでは、韓国の教会と日本の教会は、平和に過ごす間柄です。今日の説教題に「平和に過ごす決意と秘訣」と付けさせていただきました。平和に過ごす祝福に先立って、平和に過ごす決意を自らの内に確立したい、と思ったからです。また、ニュースを見ていて心が痛いのは、日本なら反韓の報道です。政治とマスコミが、協力して敵意を煽り、民衆がそれに踊らされているにように、思えてなりません。平和に過ごす決意とは、同時に、反日・反韓の敵意を煽る報道に乗せられないぞという決意でもあります。もちろん、様々な場面において、平和に過ごす決意をもって臨んでも、平和に過ごせないという悲しい現実があります。しかし、平和に過ごす決意なしに、棚ぼた式に、平和が到来することはあり得ないのではと思わされています。

平和に過ごす決意という題は、50節から取られています。主イエスが、弟子たちに「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして互いに平和に過ごしなさい」と語られました。今日の箇所の背後には、マルコによる福音書が書かれた当時、既に流布していた様々な言葉の蓄積があります。塩は弟子の特性を表す言葉です。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ5:13)。

塩から塩味がなくなれば、意味がないように、弟子から主イエスに従う真剣さがなくなれば、意味がありません。今日の箇所では、弟子の塩としての性質は、弟子同士が互いに平和に過ごすことです。文脈から分かることですが、主イエスに従う12弟子たちは、平和に過ごすことができませんでした。自分たちで集まると、誰が一番偉いかという議論を始めます(34節)。12弟子ではない他の弟子を見ると、主イエスに従うだけでなく、自分たち12弟子にも従えと威嚇的な態度をとります(38節)。主イエスは、そのような12弟子を見据えて、「12弟子同士で平和に過ごしなさい。他の弟子たちとも平和に過ごしなさい」と命じておられます。また、塩は他に塩味を与えるものです。弟子たちが平和に過ごす塩を内に持つならば、その塩は必ず社会にも影響を与える塩ともなります。弟子たちが平和に過ごすだけでなく、そのような弟子の存在を通して社会の多くの人が平和に過ごすことが、主イエスの本来の願いです。

今日の箇所は、仲違いする弟子たちが平和に過ごせるようになるために語られた御言葉です。また、塩の役割を担うはずの弟子たちが、自分たちの中に争いの種をいつも宿していることを主イエスが痛く悲しまれて語られた言葉です。

42節:主イエスを信じている人のある種の小ささに目を留め、その人を尊ばない人のことが語られています。主イエスを信じているにもかかわらず、その人の小ささが周りの弟子から馬鹿にされて、その人が主イエスの弟子に留まることができなくなったとすれば、そのようなことをする人は、大きな臼を首にかけられて、海に投げ込まれた方がよい、と主イエスは語っておられます。大きな臼とは、ロバが引く大きな石の臼です。首にかけられて海に投げ込まれたら、二度と、海面に浮上することはありません。当時の人にとって、海とは不安と恐怖の場所です。ただ死ぬというより、海の深みに沈み、二度とあがることはないとは当時の社会において強い恐怖を抱かせる表現です。

43節~48節:海の底に沈むという表現が、地獄に投げ込まれるという表現に変わっています。主イエスが語られた当時、この地獄という言葉は死後の世界を指すというよりもエルサレムにあったゴミ焼き場を表す地名でした。昔は、異教の宗教がここで人身御供として人を焼いた場所でもありました。48節の蛆が尽きることなく、火が消えることもない地獄とは、当時のゴミ焼き場の状態を描写する表現です。その上で、更に特別な意味があります。イザヤ書66章の最後の言葉の引用です(旧約1171頁)。蛆が絶えず、火が消えることのない中に死体が投げ出されるとは、神に逆らう者にくだされる神の容赦のない裁きの表れです。主イエスを信じている弟子が、すべての弟子を弟子として尊ぶことをせず、その人の持つ小ささを見て軽んじるなら、神に逆らう者として神により徹底的に裁かれる、ということが、ここで言われています。自分の手あるいは自分の足が、あの人の手や足よりも素晴らしいと思えて、自分を誇らせ他者を軽んじることになるなら、切り落としなさい。両手・両足が揃ったままで、神に裁かれるより、片手・片足になり、謙遜になり、神の命にあずかる方がどれほど良いことか。あるいは自分の目が、他者より優れていると思えて自ら誇り、他者を軽んじるなら、片目をえぐり出せともあります。両目で神の厳しい裁きにあうよりも、片目になって神の国に入るほうがどれほど良いことか、と主イエスは語っておられます。命にあずかり、神の国に生きる実質は、互いに平和に過ごすことです。片手、片足、片目になっても、命に溢れる神の国に入れていただき、互いに平和に過ごせるなら、両手・両足・両目で誇り高ぶり、小さい者を軽んじ、神によって徹底的に裁かれるより、どれほど幸いかと、主イエスは語っておられます。

説教題に「平和に過ごす決意と秘訣」と付けました。秘訣は何を恐れるか、に隠されています。敵を恐れるのではなく、自分が負けることを恐れるのでもありません。片手・片足・片目になることを恐れるのでもありません。平和に過ごすことを妨げる者や小さい者を軽んじる者にくだされる神の裁きを恐れることです。神の裁きを恐れる感覚を身に付けないと、平和に過ごす決意だけでは平和に過ごすことはできません。この感覚を心に植え付けるために、主イエスはこれほど厳しい言葉で語っておられます。そして、この神を恐れるということは、実は、他の恐れからの解放です。敵が攻めてくることも、自分の片手片足片目を失うことも、もはや、それは恐れの対象ではありません。神への恐れとは、実は、この世の様々な恐れからの解放でもあります。

これから三つのことに思いを向けます。一つ目は、互いに平和に過ごすために片手・片足を切り取り、片目をえぐり出す戦いを、自分はしてきたのだろうかという振り返りです。これほどの犠牲を払っても、平和に過ごしたいと願ってきたのだろうかという反省です。このような厳しい言葉で「互いに平和に過ごしなさい」と語られた主イエスの御心から、自分がどれほど離れているかに、説教準備中に、気付かされました。多くの人をつまずかせてきた自分は、首に大きな臼をかけられて海に沈められても、蛆が尽きず火が消えないゴミ焼き場に投げ捨てられても、弁解の余地もないと思わされました。

二つ目は、49節です。ここでの火は、48節の続きというよりも、塩との関わりで当時流布していた意味で用いられていると解釈しました。試練が火で表されています。

6今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。(1ペロ1:6,7)

当時なら、迫害も火の試練に含まれます。実際に片手片足片目になった人もいました。自分で片手、片足を切り落とす戦いができない中にあって、試練によって弱くされ、弱い者を労る心が与えられ、互いに平和に過ごす塩で味付けられていくのかなぁと思い巡らしました。そうであるなら、大切なものを失う試練もまた、両手両足両目のままで神の裁きに投げ込まれる危険から私たちを救う、神の恵みの手段です。

三つ目はより広い文脈です。主イエスは、十字架につけられるエルサレムに上る途上で、仲違いばかりしている弟子たちに「互いに平和に過ごしなさい」と語られました。平和に過ごせない者への罪の裁きを私が十字架で受けるから、私が首に臼をかけられて黄泉の深みに沈むから、私が神に裁かれる地獄の苦しみを代わりに受けるから、あなたがたは互いに平和に過ごしなさい、これが主イエスの本当のメッセージです。平和に過ごせない弟子たちが、主イエスの十字架による罪の赦しの希望の中で、「互いに平和に過ごしなさい」と語りかけられています。主イエスは、互いに平和に過ごすために払うべき犠牲がどれほど大きなものかを、ご自分の十字架によって表してくださいました。言葉だけでなくご自分の命の犠牲を払って、平和に過ごせる神の国に招いてくださる主イエスは、何と素晴らしい救い主でしょうか。このお方の弟子にさせていただける恵みは、何と大きなものでしょうか。平和に過ごすことを決意し、神の怒りを恐れ悔い改め、十字架に進まれる主イエスの後に従って歩んで参りましょう。