「内面から美しく」岩崎謙牧師(2019年2月24日)

更新日:2019/03/10

聖書 マルコによる福音書7章1~23節(新約74頁)

1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

7 人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

「内面から美しく」という説教題は、健康ブームの潮流のなかでは、腸から美しくなるヨーグルトとか、血管から若返るとか、内蔵の健康さがお肌に表れる、というような意味になります。無農薬野菜や防腐剤等の化学薬品無添加の食材など、食から健康を考えることは、確かに必要です。また、洋服を整えることも大切です。軽いきれいなコートを母のためにバーゲンで購入したのですが、母はこれを来て外出したいと、少し元気になりました。ところで、先日、先輩の牧師から面白い話を聞きました。夫婦でテレビを見ていたら、化粧品のコマーシャルになりました。先生が「使ってみるか」と聞くと、奥様が一言「5歳ぐらい若返ってもねぇ」と言って、自分も「そうだなぁ」と相づちをうち、笑い合った、とのことでした。その話しを聞き、若く見えて美しいのもいいですが、年相応で美しい方がより本物かなぁ、とも思いました。男性の場合は、社会的肩書きなど、女性とは別の仕方で外面を気にすることがあります。男女ともに外面を気にしない人はいないのではと思われます。ただし、本音の部分では、外面だけが美しいではなく、内面的な美しさが滲み出るような仕方で外面が整うことを、誰しも願っているのではと思われます。

説教題の「内面から美しく」の内面とは、心のことです。私たちは、心というと、感情が宿る場所のように思ってしまい、心、意志、理性・知性というように区分する場合があります。しかし、聖書における心とは、感情も意志も理性もすべてがそこに宿る場所です。また、罪が宿る場所も心です。その人をその人たらしめているのは、心です。そして、人は心において神と交わります。主イエスは、当時の神礼拝において、神を畏れる心が軽視されることを、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と非難されました。御言葉によって自らの心に思いを向けましょう。

 

今日の聖書箇所は、先週の続きです。未信者を念頭においた伝道礼拝ですので、特別な聖書箇所を選ぼうかとも思ったのですが、いつもの朝拝の聖書箇所からの説教をより多くの方々と分かち合うことができればと願いました。この箇所には、初代教会の当時の問題意識が色濃く反映されています。マルコが属していた教会は、推定では、ローマにあったユダヤ人と異邦人からなる群れでした。ユダヤ人は、旧約聖書の規定で汚れた物と分類された食物は食べません。また、ユダヤ人は、汚れた物を食べている異邦人と接触すると汚れが移ると思い、異邦人と出会った後は、手を洗う、身を清めるという儀式を丁寧に行っていました。それなのに、マルコの属しているローマの教会では、ユダヤ人と異邦人が食卓を共にし、同じものを食べています。今日の箇所は、なぜこのような新しい信仰共同体ができたのか、を説明するものです。マルコは、自らの教会の出発点は、主イエスのお言葉によるものであることを今日の箇所で明らかにしています。心の問題は、聖書の文脈では、新しい共同体の誕生と結び合わされています。

主イエスは、食物は外から胃に入ってきて、そして外に、つまり、便所に出て行くだけだ、と語られました。美味しいものを食べ、心嬉しくなることはありますが、当時の汚れとの関わりでは、食物と心との間に接点はありません。人を汚すものは、外から入ってくる食物ではなく、心から外に出て行く悪い思いです。主イエスは、次のように語っておられます(21~23節)。ここにある「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」は、十戒とも重なり、また、悪徳表としていろいろな所で引用されるものです。当時の人から見ても、今日の私たちから見ても、これらが悪いことは自明です。いちいち説明する必要はないでしょう。一つだけ説明するなら、最後の無分別とは、愚かさのことです。愚かさとは、偏差値が高いか、低いかという問題ではありません。愚か者とは心を見ておられる神を軽んじる者です。

主イエスの批判は、聖なる民であるがゆえに食物規定を守り、異邦人との接触による汚れを洗って清めても、心の汚れに関心を払わない人々に向けられています。汚れの問題は、食べ物ではなく、汚れた心の問題である、主イエスは事柄の捉え方を変えました。当時の社会的指導者は、外面的には整っていますが、ねたみと高慢が自らの心に宿っていることには無頓着でした。主イエスからそのことを指摘されると、主イエスへの憎しみをさらに燃え上がらせ、最後は主イエスを十字架で殺してしまいました。彼らは、殺意が自らの心に宿っていたことを、自らの行動で証明しました。人は、主イエスの前に立つとき、自分の心にある本当の姿があぶり出されます。

 

今日の御言葉は私たちに何を問い掛けているでしょうか。人の心に悪い思いが一杯詰まっていることは、誰しもが認めることでしょう。そうですが、行為において人から後ろ指を指されることがなければ、心で何を思ったとしても、他人にとやかく言われる問題ではないと思っています。内面の汚れを抱えていても、常識やその他で、外面を取り繕うことができると思っています。また、日常会話において、人の心を覗き込むような場面にまで踏み込むことはあまりありません。多くの場合、他人は外面しか見ていませんので、心を隠して人と付き合うことは可能です。外面を整えること自体は悪いことではありませんが、問題は、外面ばかりを気にして、内面に気を使わなくなることです。昔も今も、すべての人が心の汚れに余りにも無頓着です。心の汚れへの敏感さは、学問を積んだとか、社会的な地位があるとかとは、関係がありません。

主イエスは、心を見ておられます。主イエスが扱う問題は、外面的な言葉や行いでは取り繕うことができない、心の問題です。主イエスと向き合うとは、心の問題に正面から向き合うことです。汚れた思いを抱えたままでも、外面さえ取り繕えばセーフと思うのは、主イエスの前では通用しません。主イエスは、心の汚れを隠し、外面的な美しさを求める者を偽善者と断罪されます。聖書が語る罪とは、主イエスの指摘を受け、主イエスの前に立って初めて気付くことができる自分の本当の姿のことです。もし、私たちが病気になったとしたら、どのような医者にかかりたいでしょうか。悪い症状をもたらす根源的な問題を見極めることができる医者ではないでしょうか。主イエスは、諸悪の根源である心を、誰よりも鋭く見抜くことができるお方です。苦しい治療ですが、本当の癒やしは、御言葉を通して心を探られる主イエスによりもたらされます。

実は、人々の前でも、気の利いた言葉によって自らの汚れた心を覆い隠すことはできません。主イエスはそのことをも気付かさてくださいます。心の汚れを心の中だけに封じ込めることは、誰にもできません。自分の心が汚れていることを知っている人は多くても、自分の心の汚れが他者をも汚してしまうという事態の深刻さに気付いている人は、限られています。汚れた心は、必ず、外に表れます。じわりじわりですが、一人ひとりの心の汚れが社会全体を薄汚れたものにします。そして、汚れた心は、いつか必ず、言葉となって自らを表します。悪い心が悪い言葉と合体するとき、悪い言葉は想像以上の破壊力を持ちます。週報に記載されている三月の外部掲示板の言葉をご覧ください。「悪い言葉は役に立たず、語れば語るほど心を蝕み、気付かぬうちに社会に蔓延し、聞く者を破滅させる」(テモテの手紙二2章14-17節)。悪い言葉は、悪い言葉を語る者だけでなく、悪い言葉を聞く者をも破壊させる、と聖書は語ります。

 

ここで、私たちは一番認めたくないことを認めねばなりません。自分の努力で何かをしたとしても、自分で自分の心をきよめることは決してできないということです。ですから、悪い言葉は、私たちの口から消えることはありません。そのような私たちの最後に待っているものは滅びでしかないことを、主イエスは、自らの十字架をもって、私たちの目の前に見せてくださいました。

しかし私たちは絶望する必要はありません。主イエスは、十字架の上から、「わたしが身代わりに死ぬから、あなたは生きよ」、と語りかけてくださいます。主イエスは、心の汚れを指摘するだけでなく、十字架の血潮により心をきよめてくださる真の心の医者です。私たちは、「主よ、心をきよめ、罪を赦してください」と、主イエスによりすがるしかありません。主イエスは主により頼む者を決してお見捨てにはなりません。心がきよくされる地上の歩みは亀のようにゆっくりですが、主イエスを信じる者の心は、主イエスの十字架と復活のおかげで、死を経て、完全にきよめられます。主イエスを信じる者は、死の向こうに、完全にきよめられる天の喜びを見つめています。

マルコがいたローマの教会は、民族も生活習慣も全く違う者の集まりでしたが、外的な強制で一致したのではありません。主イエスを信じた者が、内側からの美しさを求め、悪い言葉に気を付け、天での完成を仰ぎつつ歩んだ時、全く新しい共同体が誕生しました。内側からの美しさが、外側に表れる生き方を主イエスに祈り求めましょう。